本願寺堺別院について

~ 堺別院由来 ~

経堂

堺は古くから海上交通の要衝でした。特に文明元年(1469年)に中国から帰った遣明船が入港して以来、日明貿易の根拠地となり、堺商人は強い経済力を持ち、やがて自治都市を形成します。
蓮如上人は遣明船が帰港した翌年、文明2年6月に堺南庄の紺屋道場円淨に寿像(蓮如上人の肖像)を授けられ、同年10月には堺北庄の山口中町の樫木屋道場道顕に親鸞聖人御絵伝を、さらに文明8年(1476年)には同じく道顕に対して開基道祐の影像を、それぞれ免許されました。

上人は文明7年秋に越前吉崎から畿内に帰られて伝道されますが、堺の重要性に着目し、道顕のすすめにより、翌文明8年に御坊を営み信證院と称しました。
文明11年(1479年)堺の坊舎は、前年から造営にとりかかった山科本願寺に移築されました。山科の御影堂は文明12年、阿弥陀堂は文明14年にそれぞれ落慶しました。
その後、堺の坊舎は再建されましたが、その年次は不明です。明応3年(1494年)上人は堺御坊の本尊に紺地金泥の九字名号(南無不可思議光如来)を定められました。
上人は堺御坊にしばしばおもむかれますが、御坊におけるご教化について、つぎのような事柄が伝えられています。
上人は、堺御坊の御堂の卓上に御文章を置かれ、参詣人があると、必ず読ませられました。上人は「参詣人はたとえ一人であっても、御文章を読みきかせたならば、ご縁のある人は、信をとるであろう」と申されました。

与謝野晶子の句碑

またある時は、夜ふけて蝋燭をともして、お名号を書かれました。ご老体ゆえに、御手もふるえ、御目もかすみ、ご苦労されながら筆をとられました。翌日越中へ行く人に託すためでした。これも、ただ信をとらせたいとのおぼしめしからでした。
あるとき、中国大陸北部の契丹人が4,5人つれだって上人を訪ねてきました。それは、ひとり子を死なせ、嘆き悲しみ、蓮如上人の名声をきいて、来日したのでした。上人のご勧化によって、阿弥陀仏の本願のありがたさを知り、上人から六字名号を頂戴して帰国したといいます。
蓮如上人のご往生ののち、堺御坊は御子の実賢、上人の内室蓮能尼がそれぞれ継がれました。その後、戦乱によって衰退しました。
本願寺第十二代准如上人の時に本堂を再興し、本尊を新造し安置しました。旧本尊は江戸の別院浅草御堂に移されていたためです。第十五代住如上人の享保13年(1728年)に本堂を重修しました。第十七代法如上人の安永7年(1778年)蓮如上人廟所と拝堂を造営しました。寛政10年(1798年)の火災で本堂・広間・台所が焼失し、第十九代本如上人の文政8年(1825年)に再興し、今日に至っています。

本堂内陣

本願寺堺別院会館

本願寺堺別院旧会館は昭和39年、宗祖親鸞聖人700回大遠忌記念事業として建立されました。しかし以後40年の星霜は甍を損なわない壁を傷め、また設備の老朽化が著しく、そこで、新たなる時代に向かって別院の更なる発展を期し、平成11年(1999年)に勤修された蓮如上人500回遠忌法要記念事業の一環として、新会館建立が計画されました。
以後、堺別院崇敬区域137ヶ寺の住職・門信徒挙げて懇念を収め、関係者各位の多大のご尽力のもと、平成16年(2004年)4月30日旧会館解体法要を勤め、同年6月17日起工式、同年10月14日上棟式を勤修し、平成17年(2005年)3月15日竣工いたしました。
会館内はバリアフリーで、寺務所・最大140名収容のお内仏(ホール)等を配し、各種会議・催し・法要等にご利用いただけます。
※詳細は別院までお問い合せください。

堺県

 

堺の地に「堺県」が設けられていたことを、皆さんはご存知でしょうか。和泉・河内地方はもとより、遠く現在の奈良県までの行政区域だったようです。
江戸時代が終わった(明治元年)から、明治14年に大阪府に合併されるまでの14年間、歴史上に存在した県でした。慶応4年6月22日、大阪府から和泉国をさいて、堺県が行政上独立しました。堺の町は、大小路が摂津と和泉の境であり、大小路よりも北は大阪府、南は堺県となったのです。
明治2年には、河内県と狭山藩が堺県に入りました。明治4年に廃藩置県が行われ、大和川を摂津と和泉の境ときめるとともに、次々と周辺の県を合併しました。明治9年には隣の奈良県をも合併し、堺県は和泉、河内、大和をあわせた大きな県になったわけです。
県庁ははじめは、堺奉行所、のちに明治4年から同14年までの10年間、本願寺堺別院(北の御坊)に移りました。
※参考:21世紀の堺を考える会資料

境内のご案内

本願寺堺別院の創建は、足利義氏の第四子祐氏によると伝えられています。文明2年(1470年)には、道顕が蓮如上人を招いて堂を再興しました。その後、享保13年(1728年)に、現在地に本堂を落慶しましたが、寛政10年(1798年)の火災で表門と鐘楼を残して焼失しました。
現在の本堂は、文政8年(1825年)に再建され、現存する堺最大の木造建築物です。正面に阿弥陀如来、向かって右に親鸞聖人、左に蓮如上人が鎮座しています。堂内の内陣と外陣を仕切る襖絵には、中世の自由都市堺を彷彿させる南蛮貿易図が描かれています。

本願寺堺別院歴史年表

1450年

6月 蓮如上人、堺南庄の紺屋道場円淨に寿像(蓮如上人の銅像)を授ける

10月 蓮如上人、堺北庄山口中町の樫木屋道場道顕に親鸞聖人御絵伝を授ける

1461年

3月 蓮如上人、堺御坊にて、「御文拝読の初法座」

1470年

道顕、堂舎を再興し、蓮如上人に落慶法要の導師となることを願い出る

1476年

蓮如上人、道顕に開基道祐の影像を免許 蓮如上人、道顕のすすめにより、御坊を営み信証院と称す

1479年

堺坊舎、山科本願寺に移築年次不明 堺坊舎再建

1494年

蓮如上人、堺御坊の本尊に紺地金泥の九字名号(南無不可思議光如来)を定める

1728年

本堂を重修

1778年

蓮如上人廟所(蓮如堂)と拝堂を造営1798年火災により本堂、広間、台所が焼失

1825年

本堂再建。落慶・遷仏法要を営む

1871年

堺御坊、堺県の県庁となる(~1881年)

1964年

親鸞聖人700回大遠忌法要記念事業として会館建立

1998年

本堂大屋根の修復、内陣修復、襖の新調を行う

2004年

会館老朽化により除却

2005年

3月 蓮如上人500回遠忌法要記念事業として会館建立

獅子 堺県庁跡 太鼓楼 御成門 経堂 納骨堂 山門 鐘楼 手水場 与謝野晶子句碑 親鸞聖人像 本堂 蓮如堂 会館 墓地 境内案内